内証
かつて私は苦痛を神格化していた。もろもろの問題・苦痛から逃避する手段として童心の私はより直接的な痛みに救いを見出すようになった。
錆びたカミソリで刻まれたようなもどかしい痛みに苦しんだ末に、矛盾しているようでもあるが、より研ぎ澄まされた劇的な苦痛を思うようになったのだ。そして実際に、その痛みは私の罪業感を満たす唯一の物だった。
その空虚な鋭さ。感性の針が私の救いになった。
私は意地汚く、痛みを抱えたキャラクターが好きだ。意地汚さに人間らしさを感じ、その上、そういった痛みにはたやすく共感できるからだ。その歪んだ熱量の強烈な感情が私を引き付けて離さなかった。
そして最近気づいたが、かつての私は無意識にそのキャラクターの苦痛を羨んでいたようだった。あるいは、自分と同じような病んだ人間と一緒に過ごしたいという、叶えようのない欲求に対する代償だったのかもしれない。
書き殴り・書きつけ・散文
自分に優しく居るために、髭を剃って、髪を切って、毎日お風呂に入って、好みの服を買う。作業の合間のコーヒーにはレモンを入れる。それも自分に優しくあるためだった。
世界は僕に優しくないから、僕だけは自分に優しくしないといけない。
問題を避ける一番の方法は、そもそもそこに居ないことだ。
雑踏の中で一人
またと見る事もない眩きがある。
ただ波の音
礼儀正しいだけの人間のなんと無価値な事か!
汝の罪は生まれいでたことにあり!
関わることもない人がある。
おはじきを夏に透かしたような灯り。
海と見違うほどの空。
時々、今にも全身が破裂するかのような時がある。訳はしらない。決まって私は痛みに頼る。太ももに針を突き刺すのを考える。痛みを思って脳を制圧する。押し寄せてくる。飲み込まれてしまいそうになる。
色彩を欠く
私はどこに行くにも本を持ち歩く習慣がある。梶井基次郎の’’檸檬’’もその一つだ。
ある男が気力を失い、世界から色彩を無くす。裏路地の八百屋でレモンを買い、その艶やかなレモンイエローに想像力を刺激され、自由を透かし見て、慰めを得る。そういう話。
世界から、あるいは自らから色が失われてしまったような感覚はきっと大勢がより内面的な部分で、それを感じたことがあろう。
別に初めての経験というわけではない。世間を見るに、どうやら私は色々と問題がある人生を送っている方だし、心の面で多くの問題に遭遇してきた。
一回目は寝込んだ。二回目以降は新しいことを試した。奇妙なことから、いかにも道理っぽいことまで。 しかしいまだに、わからない。
昔は世界が鮮やかだった。問題もあったがそれが自分を形作った。夏の揺らめきを愛し、その匂いが好きだった。水の張った水田に空が映り込み、鏡の国にいるようだった。 冬の厳しさも好きだった。アクリルガッシュの白絵の具を雑に塗り込めたような景色。手足がかじかんで温かいお茶が全身に染み渡った。
世界は今と比べるべくもないほどに多彩だった。
しかし今、夏はただ暑く、冬はただ寒い。春は花粉が気にかかり、秋は暗くて窮屈だ。鏡の国は失われ、アクリルガッシュは中学を卒業するときに捨ててしまった。
きっとみんな子供の頃は面白い人になりたかったはずだ。個性があり、ユーモアに溢れ、確立された一人の大人。きっとあなたもそうだったはず。
無題
お気持ちヒューマンである所の私は色々あるとツイッターで妄言を吐いたり酔っ払ってファミマの悪口を言ったり、ブロンをたらふく飲んだ後の深夜徘徊を日課にしだしたりするのは一部交友関係上では有名な話である。落ち込むことが多く情緒が安定したりしなかったりでメトロノーム的情緒不安を抱えて生きている。ややもすれば、死にたみやら虚無感を慰めにして飽きもせずに情緒をこねくり回す不健全で安易な生活に流れてしまったのも無理からぬ話であろう。
ということで、全く自然に、さもありなんという感じで希死念慮を持ち余している身の上である。死にたい死にたいと貧弱なボキャブラリで連呼する割には生きているじゃないか。と馬鹿にされることもしばしばで、返す言葉もない。自分の恥部をインターネット上の不特定多数に見せつけるという精神的露出狂のような有様で日々過ごしている。
こんな無様な私であるが一度だけ普段の漠然とした希死念慮とはまた違う、より明確でハッキリした自殺願望を持ったことがある。事情は割愛する。すさまじく穏やかな気持ちで理由もなしに気分がよかった。些細な全ての日常が私を自殺へと誘惑しているかのようだった。すべての流れがただ死ぬことに向かって進んでいく。ジグゾーパズルの最後のピースをはめ込むみたいな自然さ。同時にここで死ねなければ私はもう救われることはあるまいと、確信じみた予感があった。瞬間最大風速で加速度的に死に近づく。
頭の片隅で死んだ後を考えた。アレを処分しなきゃ、どうせなら金を使いきってから死のう。とりあえず朝ごはんを食べて、それから生前整理を始めよう!
私の短い人生の中で最も死に近づいた瞬間だった。
その感覚は一日持続し、翌朝には綺麗サッパリなくなってしまった。後にはきれいに掃除された部屋と処分した''死後残っていると恥ずかしい思いをするであろう代物''、そして今書きだした強烈な感覚のみが残った。
日頃死を思うものは同時に死をやり過ごすすべを学んでいる。普段そういった問題にあまり取り組まない。という人物こそ、いざ死のうとなった時にはあっという間に死んでしまうだろう。日頃死を思うということは一時の衝動から身を守るためのの予防接種になりえるらしい。
私は死を思う程度には弱く、死ぬことができるほどには強くなかった。
私は死ねなかったし、予感の通り救われることもなさそうな身の上である。
いまでもたまにあの時死んでおけば、と思わずにはいられない。
そしてそれすらも慰めとする意地汚さといったらない。