卍ブログ

のうみそ文章置き場 ポエム

無題

お気持ちヒューマンである所の私は色々あるとツイッターで妄言を吐いたり酔っ払ってファミマの悪口を言ったり、ブロンをたらふく飲んだ後の深夜徘徊を日課にしだしたりするのは一部交友関係上では有名な話である。落ち込むことが多く情緒が安定したりしなかったりでメトロノーム的情緒不安を抱えて生きている。ややもすれば、死にたみやら虚無感を慰めにして飽きもせずに情緒をこねくり回す不健全で安易な生活に流れてしまったのも無理からぬ話であろう。

ということで、全く自然に、さもありなんという感じで希死念慮を持ち余している身の上である。死にたい死にたいと貧弱なボキャブラリで連呼する割には生きているじゃないか。と馬鹿にされることもしばしばで、返す言葉もない。自分の恥部をインターネット上の不特定多数に見せつけるという精神的露出狂のような有様で日々過ごしている。

 

こんな無様な私であるが一度だけ普段の漠然とした希死念慮とはまた違う、より明確でハッキリした自殺願望を持ったことがある。事情は割愛する。すさまじく穏やかな気持ちで理由もなしに気分がよかった。些細な全ての日常が私を自殺へと誘惑しているかのようだった。すべての流れがただ死ぬことに向かって進んでいく。ジグゾーパズルの最後のピースをはめ込むみたいな自然さ。同時にここで死ねなければ私はもう救われることはあるまいと、確信じみた予感があった。瞬間最大風速で加速度的に死に近づく。

頭の片隅で死んだ後を考えた。アレを処分しなきゃ、どうせなら金を使いきってから死のう。とりあえず朝ごはんを食べて、それから生前整理を始めよう!

私の短い人生の中で最も死に近づいた瞬間だった。

その感覚は一日持続し、翌朝には綺麗サッパリなくなってしまった。後にはきれいに掃除された部屋と処分した''死後残っていると恥ずかしい思いをするであろう代物''、そして今書きだした強烈な感覚のみが残った。

 

 

日頃死を思うものは同時に死をやり過ごすすべを学んでいる。普段そういった問題にあまり取り組まない。という人物こそ、いざ死のうとなった時にはあっという間に死んでしまうだろう。日頃死を思うということは一時の衝動から身を守るためのの予防接種になりえるらしい。

私は死を思う程度には弱く、死ぬことができるほどには強くなかった。

私は死ねなかったし、予感の通り救われることもなさそうな身の上である。

いまでもたまにあの時死んでおけば、と思わずにはいられない。

 そしてそれすらも慰めとする意地汚さといったらない。